さしみ海域

くだらない記事を気まぐれで書いています。

小説 異界の童

 

あれは、電車を乗り継ぎ、祖母の家に遊びに行った6歳の夏。

8月になり、身を焦がすような熱い日差しが照りつける日の事だった。

 

私は、祖母に川に遊びに行くと言い、一人で山の中の小川に歩いた。

山の中は木の葉によって日差しが遮られ、とても涼しく感じられた。

木の表面を触ると、鱗のようにザラザラとしていた。表面はとても硬かったが、同時に湿っている。

他の木を見ると、何か白い紐が巻き付いていた。

 

祖母の家から少し離れた小川へ着くと、苔の生えた岩に座りこんだ。

岩には小さな蟹がいたので、ひとつ拾い上げる。

蟹の足が暴れて手のひらで動く感覚は、なんだかくすぐったかった。小さな蟹を離すと、蟹は怯えるようにして岩の隙間に入りこんでしまった。

 

川の表面を見れば、父親の手のひらほどの大きな魚がひっくり返って浮かんでいた。なんの魚かは分からないが、どうにも、その銀の眼は私の顔を見ているように感じた。じっと、こちらの瞳を覗き込むように。

6歳の私には、それがとても気味悪く感じられた。

 

少し離れた場所へ下り、川沿いを歩いた。

川は深くなっていき、氷の解けた麦茶のような、冷たい水の飛沫が飛んでくる。

私は、先ほどの死んだ魚の眼が頭から離れなかった。

深くなっている所を覗くと、少し恐ろしさを感じた。

小さな滝の水音。五月蠅い蝉の声すら聞こえない森の中で、唯一その音だけが聞こえる。日差しの届かない森の涼しさが、私に恐怖感を植え付ける。

 

怖さを紛らわすためだったのだろうか。大きな石を両手で持ち、川へと投げ込む。

大きな水飛沫が上がると同時に、シャツの外から、何かが通り抜けたような感覚に襲われた。

背筋が凍り付く。

耳鳴りがする。

襲ってきた恐怖感に、たまらず逃げ出してしまった。

 

川から離れた森に行くと、横に倒れ木に寄り掛かった鳥居を見つけた。

限りない恐怖に支配されていたためか、山の神にすがろうとしたのか。私は鳥居の方へと走った。

やがて、苔の生えた木の祠に出会う。

小さな祠の柱には、最初に見た、白い紐が括り付けられていた。

祠の石畳の隙間から一輪だけ、綺麗な紅い花が咲いていた。

緑ばかりの森の中で唯一、違う色のものであった。

お守りのようにその花を手に取り、両手で包んで来た道を戻っていった。

 

来た道を戻っているはずなのに、明らかに地形が変わっていた。

川の水音もなくなり、森の静けさに混じった、自分の足音だけが耳に入る。

そのうち、自分の足音すら妙に感じた。

固い土と木の地面を歩いているはずなのに、まるで砂の上を歩いてるように足音がしない。

上を見ると、木漏れ日すら消えていた。

まだ夕暮れまでには時間があると思ったのに、もう夜のように暗い。

葉の隙間から覗いた空は、歪んでいた。

だんだん

だんだん森が暗くなっていく。

脛を指先でつつかれるような感覚が襲った。

つんつん

つんつんと、右足から。

足元は暗く、どんな形の地面を歩いているかすら分からなくなっていた。

森の中で、昼から唯一変わらないのはこの冷たさ。

明かりもない森の中を歩く恐怖に耐えきれず、木に座り込んで泣き出してしまった。

 

どこか遠くから、女の人の笑い声が聞こえる。

くすくす

くすくすと、笑っている。

また遠くからは、三味線のような、何か分からない弦を弾く音が聞こえる。

ぺんぺん

ぺんぺんと、か細い音で。

どうすることもできないと、紅い花を左手で握っていると、いつの間にか。横には何かが座っていた。どんな姿だったか、私には思い出すことができない。

 

何かは右手を静かに持ち、私を立ち上がらせた。その手はとても優しく、冷たい森で唯一の温かさであった。

何かは何も喋らなかった。ただ、温かい手で私の手を引いて森を歩いた。

たくさんの木の枝が掴もうとしてくる。

しかし、私の体に触れることができず、すり抜けていった。

とても恐ろしいものであったが、握られている温かい手によって、怯えることはなかった。

 

足場の悪い道を走ったことによって息を切らしているのに気が付いたのか、何かは小さな石の上に座らせてくれた。

優しい手の感覚が頭を撫でる。

先の恐怖感は嘘みたいに吹き飛んで、私はただ安堵していた。

もう笑い声も、弾く音も、聞こえなかった。

 

山を抜けると、とても広い畑へと出た。

外は暗い。

少し遠くへ、街頭の明かりが見える。

この畑には見覚えがあった。祖母の家の前の、大きな稲畑だ。

何もない、畑の中の道を歩く。

何かは何も話さない。

黙って私の手を引いていた。

 

祖母の家の玄関で、立ち止まった。

ここまでしてくれた何かにお礼をしようと、ポケットから紅い花を取り出す。

それを手に取ると、私に一つの人形をくれた。

木でできた人形だったが、左腕には白い紐が巻いてあった。

握っていた手が、離れる。

私はとても、寂しいように感じた。

 

後日、祖母にこの不思議な体験のことを話した。

そして、祖母にあの人形を渡すと、何も言わずに握っていた。

何か、とても大切な物だったのかと尋ねると、これは何年も前に亡くなった祖父のものだという。

私は祖父に会ったことはなかった。

 

祖母に連れられ、祖父の墓へと向かった。

その日は暑さはなくなって、なんとなく、あの森のように涼しい日だった。

祖父の墓石の前に座り込む。

「あら…誰が置いたのかしらね。」

祖母が言う。

私が立ち上がると、墓石の上には花が添えられていた。

 

花は、綺麗な一輪の紅い花であったとさ。